昭和五十六年十二月二日 朝の御理解
御理解第五節
「これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おかげになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が祈るところは、天地金乃神と一心なり」
今日私、光興産という事を頂きました。光興産というのは、日田に時々参って見えます大変繁盛しております会社です。長野さんというなかなかのまあいうならやり手というでしょうかね。所の会社名です。光興産というのは。
どういう事だろうか。光興産の事を教えとられるのだろうかと思いましたけれども、今日の御理解を頂きますと此方が祈る所は天地金乃神と一心とこういう。私共の信心対象というか信心の目当てというのはどこまでも天地であります。その天地の信心といえばまあいうならば天の心地の心が納得がいくという事は、親神様のお心が分かるという事である。そいから親神様の心がいよいよここでは説かれますのでそれを分からせて頂きましたら、そのお心に添い奉ろうという所に信心がありまた精進がなされなきゃならんのです。
一心を立てれば我心に神が御座るからおかげになるのじゃというまあ部類の信心ではないわけです。ね、何様でもええ一心不乱に拝んだり修行したりさしてもろうてそこから表れてくるおかげというのはね、我心に神が御座るからおかげになるのです。ですから、その我心に御座る神様がその天地金乃神と一心になりといわれる我心の神が天地の中に入っていくと申しますかね。ま、ここでは天地人一如といったような言葉で表現されます。
ですから、過去の宗教これは金光教の過去、金光教を云うてもいいのですけれどもいわゆる祈念力というかね。一心に拝んだ、一心に参ったという事でおかげを頂くという信心ではなくてね、どこまでも天地の心を心としていうなら、まここでいうなら合楽理念とこういうね。
合楽理念に基づいておかげを頂く、いわゆる徳をうける光をうける。その光によるいわゆる興産である。興産とは興し産みなすと書いてあります。その光による所の発展であり、産みなされてくるおかげでなからなければならん為にはね、只一心に拝んだ一心不乱の修行をしただけではいけない。これがいけないというのじゃありませんよ。いわゆる焦点を間違いなくはっきりとなら合楽理念なら合楽理念においての一心であり不乱でなからなければならん。やっぱり一心不乱もいります。
只、合楽理念をマスターしたというだけで修行が伴わなかったらそれこそ論語読みの論語知らずです。知っとるだけではおかげになりません。光になりません。ね、光を頂いて興ってくる。昔、地真水心という事を頂いた事があるんです。地の真、地真とは地の真、水心とは水の心である。真の追求というてもよいくらいです、ね。それをいうならば地の真という。真とはどういう事か、ね。合楽で云われる成り行きを尊ぶとか大切にする又は、土の心でとこういう受け方こそ私は真だと思うです。
ですから、ここで皆さんが成り行きを尊ぶという生き方に焦点をおいて精進しとられる方達の場合なんかもうすでに真の信心がでけておるというていいのです。ね、そりゃそうでしょうね。起きてくる事全てが神様の働きとして教えられます。だからその起きてくる全てがしかもそれは神の心であり神愛の現れだと説かれます、ね。合楽では、ですから神様の働きであり神様の愛の心がわからしてもろうてそれをそれこそ黙って受ける成り行きをいよいよ尊ばせて頂くという生き方はもう真に間違いないです。地真です。地の真です。ね、水心、私はもう信心に求められるものは素直心です。もう素直な人には勝ちません。
「素直心のひとつにて雲の上までも昇る道ある」私はその教えを頂いてですね、素直にそれを聞いて素直に実行するという事。水の心といえば器に従うという事が云われます。ね、四角の器に入れれば四角、丸い器に入れれば丸いね。しかもほんなら水の流れというものの勢いとか力というものは流れて来るものを成程こうやって塞ぎ止める事は出来ます。塞ぎ止める事は出来ますけれども、塞ぎ止めても塞ぎ止めても今度は上から流れてくるので又横を通って流れる。それが水の生態です。ね、もう素直で何か弱々っしい、素直といえば弱々っしい馬鹿ん事感じますけどね、こんな強いものないです。ね、それが水圧ともなってくると電気を起こすような働きさえおこってくるんです。それが天地とひとつになる事なんです。
ね、神様の働きは電気体と同じだといわれます。だから、どうしても私共の心がね生き生きと先ずはしてこなければ昨日のお説教の中にも申したようにね、水々しい生き生きとした心ね、それを私は昨日ときめきの心というふうに申しました。心がときめいてくる、ね。そういう心の状態で素直心という事になったらもう大変な力がね、いわゆる水圧、電気を起こすほどのいうならば神様の働きを働きとして表わし申し上げる事がでけるというのはそういう事。そういう信心からだと思うです。
昨日、月次祭御祈念の座に着きましてからもうそれこそ御神殿を埋め尽くすようなあの御供の中に座らして頂いて、まあおかげ頂いたもんじゃあるなあと私共、もう本当にあれほどの信心をされる大坪さん一家が、どうしてあんな貧乏しなさらんなんやろかというような時代があったという事です。ね、それこそ願っても願ってもね、それこそ啄木の詩じゃないですけどもね、働けど働けど我暮らし楽にならざるであった。どうしてこんなに難儀が続くだろうと私は云わなかった。啄木はじっと手を見るだけだったけれども、私はもうじっと自分の心を見極めていった。難儀であればあるほどに自分の心を見極めていった。
そこから合楽の信心は生まれておるのです。そこからいうなら光が与えられたのです。ね、光に照らしだされて今日の合楽があるのです。お月次祭たんびにお供えも御座いません。けれどもやはり小さい御神様に小さい御八足それに御三宝にね、それこそお酒も買いませんからお水(酒)徳利の中にもお水です。畳一板位に庭を作っておりましたのがもうそれが実によく出来たんです。いつもだから塩で煮たニラを子供達が甘いね甘いねというて頂きよりました。ですから、ニラを切っていつの月次祭の時だったでしょうか。私はニラを切ってこうかがんでニラを揃えよりました。そしたら気が遠くなってわからんようになってそしてそのまま倒れたんです。家内、子供たちでびっくりしてね福岡の時代ですから、そいからそんな事も御座いました。それこそニラが。食料品店からもろうてまいりました沢庵の味が悪くなった臭くなったもうお金はいらんと云われるそれをもろうてき、よかとこだけを切って御三宝にお供えをさして頂いていうなら月次祭ともなるとまあ一家中で御祈念をさしてもらいよりました。
神様がある時、水づくしと仰った。お神酒鈴の中、水玉はもちろん水ですけれどもお神酒鈴の中までがお水でしたからね。水づくしね、魚づくしになるまでは離れられぬがわしの心じゃというようなお言葉を頂いた事があります。そういう時代があったんです。初めから今日の合楽があるとじゃないです。ね、その水づくしの時を私はいよいよ大切にしてきたんです。いよいよどうしてこれほど信心するのにといったようなものではなくて、いよいよじっと手を見るではなくて、もうそれこそじっと自分の心を見極めて見極めぬいてそしてそこから改まった信心になっていったんです。ね、そこから水の心も生まれ、今合楽で云われる合楽理念の母体とでも申しましょうかね、まあ今日の御理解でいうと地真水心が身に付いてきたのです。ね、地の真、水の心ね。それは本当に周囲から見たら馬鹿のようにも見えたでしょうし、本当に無気力に見えたか知れません。 私の友人等は、大坪君あんた商売をすりゃあね、まあいうなら一人前の商売もでけるのにどうしてそのそういう金光様金光様といってお商売をせんかと、もう商売をできなくなった時分の頃でしたけれどもそういうて私に忠告してくれる友人がありました。ね、本当に無気力に見えたでしょう。馬鹿に見えたでしょう、ね。けれどもね、そういう時をいよいよ大切にする心その心が今、合楽でいわれる成り行きを大切にするという事になったんです。ね、誰がどう云うても何と云うても黙ってそこに辛抱し抜くというその心が今合楽で云われる土の心です。ですから合楽ではどうしてもね、そういう信心が先に立たなきゃ駄目です。
昨日の朝の御理解に岡崎さんの事申しましたがね、昨日一昨日の朝岡崎さんの云われるのに信心はもう隋分長いけども、只お願いをする頼む事が神様のような時代がずーっと長く続いた。ね、そこから期せずしてと云うのでしょうね。朝参りが始められてそれがもう止められない。ね、そこからいうなら朝参りの有難さが分かってきた。それこそ胸をときめかしての朝参りとまではいかなかったにしてもですね、そういういうならおかげではなくて信心が進行してきた。ね、昨日一昨日の御理解におかげでこうやって朝参りが始めさしてもろうていうなら信心の稽古を芯にさして頂くようになりましたら、月末には慌てんですむつがめがおうていくというようなおかげを受けておりますというお届けでありましたがね、今日は皆さんに聞いて頂いた地真水心、光興産、光による所の興るもの産みなされてくるおかげでなからなければ合楽的なおかげという事はいえません。
壱岐から月に二回づつお参りなさいます御信者があります。勿論難儀な問題を抱えておられる。昨日月末の信話会の晩にこちらへ着かれて、そして昨日朝の御祈念を頂いて帰られた。そして昨日の朝お夢の中に、御飯がいっぱいついである上に里芋の煮たものがこうやってつけてある。そして横に茖荷がいっぱい置いてありましたというお夢である。もうまさしく私は御神夢だと思います。皆さん分かられるでしょう。
私は特にあの里芋が大変好きなんです。だからこのお碗に白い御飯がいっぱいついである、ね。芋を菜にして頂く、これはまあいうならば合楽的というか合楽好みの信心というか、合楽的信心によってママになるという事ママになる。そこから生まれてくるのは茖荷である。茖荷とは、勿論野菜の茖荷ですけれどもお夢頂いとられるのはね。喜びの妙と賀正の賀、女偏と書いて少ないと書いて妙賀、御理解に妙賀と。
どうしてもね、どんな場合であっても、苦しければ苦しいほどそれこそ有難い涙がこぼれるほどしの信心こそが妙賀なんですよ。神愛が分かってくる。もう本当に苦しいんです。苦しいですけれども神様はもっと苦しんでおられるのだ。私をここまで高めて下ろうとするための神様の働きなのだとね、それこそ一日を修行修行でおくらせて頂いても、帰って参りまして御神前に出るともうそれこそ有難涙がもうそれこそ表現が…もうそれこそ滝のような涙が流れておりました。ね、結構な修行さして頂いて有難い。これなんです。妙賀です。ね、おかげ頂いて有難いというのは私は妙賀じゃないと思う。そこにね、合楽的いうならママになるおかげというのが頂けると思うんです。
昨日から申しておりますように、お互いが金光様の御信心の有難い事、その教祖金光大神の教えというものをこれほどまでに十全な解き方をしてきた教えが宗教が過去においてあったであろうか。
合楽理念がまあいうなら完璧な域に入った宗教としてです。皆さんがそれを信じて下さるね。秦先生じゃないですけれども、合楽理念以外の宗教は宗教とは感じない、思わない。本当にそうなんです。だから本当にそうなんですけれども、私が云うたんでは値打ちがありません。その合楽理念を勉強して下さって合楽理念のいよいよその深さ広さに皆さんが触れられて初めて云われる、合楽理念以外の宗教は宗教じゃない信仰じゃないと云うて初めて合楽理念が世に出るのです。私がいくら云うても駄目です、ね。
だから、皆さんが先ずはおかげを頂いて下さらなきゃならん為にいうならば合楽的、昨日私が思いますようにね本当にあの素晴らしいお供え物の中に埋まるようにして御祈念をさせて頂きながら私共の信心の初めの事を思うてみて、成程神様がね、水づくしだけれどもね今こそ水づくしだけれどもね、魚づくしにしてやるまでは離れられぬのが神の心じゃと仰せられますような神情を悟らしてもろうてね、そこから信心の喜びその喜びがそのまま光になり興産である。産みなされてくる興ってくる所の御比礼というかおかげ。
昨日、私はお届けをずーっとさして頂いて一番最後ン所に佐田先生所の今度生まれた与一って云うんです、ね。茄子の与一の與一。佐田與一と書いてその下が佐田恵介になったんです。一番最後に、私は二人のその与一と恵介と思うてから本当にまあ、恵介君が生まれたのはほんについ此頃のごたったね。結婚したけれども子供が出来ない、ね。そこで当時光橋先生が久留米に出たばかりでした。その光橋先生のお広前にお引寄せ頂いて五年ぶりか六年ぶりに子供に恵まれた。ところが娘であった。ね、又次に生まれたものもやっぱり娘であった。もうそれこそ、もう三人目も又娘に違いないから産みなさんなと親達から言われた。ね、けれどもね神様にお願いをさして頂いたら今度一回だけは頂けと。お母さんがどんなにか。お母さんがね、御礼に出てみえてから一番始めに云われたのはまあその後時々参って見えておりました。ね、もう兎に角恵美子さんばっかりはどうした強情な女子やろかというて、お腹が大きくなっていくのをずーっとにらみ続けておりました、と云うて涙ながらのまあいうならば懺悔ですね。おかげ頂いていうならば願いに願っておった佐田家の息子が生まれたという御礼のお届けに見えましたが、それがつい此頃のようであった。
それがもう二十一才になってお道の教師のお取り立てまで頂いておる。その恵介と與一をこう思うてみてハハァー私がまあ二十年長生きしとりゃ與一が與一君がね、お道の教師に又お取り立て頂く事であろう。そんなに思うて考えにふけっておったら安武先生が参って見えた。ね、安武先生とこも息子、丁度五人息子が続いて生まれた。おそらくこの五人の息子がおそらくはお道の教師にお取り立て頂くであろうが、私がまあ二十年間長生きのおかげ頂いておるとお道の教師のお取り立て頂く事を見定めてえー行く事が出来るなというような事を思うてその事を安武先生に話した事でした。今、私はこういう感慨にふけっている所だったがね、どうでも子供の事を親が祈らん願わん者はおられんけれども本当に一番最高のおかげを頂く事の為に、いうならもう二十年間あるけれどもその間に親も育っとかなければいけないね。親もいよいよ信心を進めておかなければいけないねと申しました事で御座居ます。
ね、十年経ち二十年経ちその信心の芯がです。只、我心に神が御座るからというて一心を立ててこげな奇跡もあった、こげなおかげも受けたという二十年ではどういう事になるでしょう。二十年間の間には二十段階を進まして頂いた。高度な信心に進んでおる、ね。私が祈る所天地金乃神と一心と云えれるような事の為にもいよいよ地真水心の信心がね本気でなされていくということ、ね。合楽の信心がいかに有難いか素晴らしいかという事を見極める。
これも昨日、北野の上滝さんのお届けでした。長いです。信心はもう私の一番、私に本当の神様を与えてくれたのは上滝さんの御主人です。ね、もう医大のその当時の何とか云う有名な結核の専門の先生が見えられた。そしてもう時間の問題と云うて帰られた。私がまいりました時にはもうとてもこの人が生きられるなんて思えない。それこそ骸骨のような状態でもうここからは破れて膿がずーっと出続けに出ておってもうそれこそ側におったら臭いような状態でした。それを私は一と月間抱いて寝ましたからね。抱いて寝たちいうが私の布団の横に寝せました。ずーっとこちらには上滝さんこちらには荒木さんと同じような状態の肺病の人でしたけれどもね、一と月ほう、もう本当にもう見る見るおかげ頂いたちはこの事だろうというようにまあおかげを頂いたんですけれどもね、まあ亡くなられました。
けどもその後ほな上滝さん一家の御信心がずーっと続いて非常に珍しい人ですから、教えを守とか行ずるという意味で非常にまあ徹底した方なんです。ね、だから金光様の信心ちそげん日参り夜参りせんでんというようなものがあったんですけれどもね、最近は朝参りがもうそれこそ心ときめかしての朝参りになってきた。人間がね、もう本当の事になってくるともう最近は御親戚の知った人達にお話をする。朝参りをしとって又昼からその人達を導いて参ってくるというような喜びそれこそいっぱいの御信心が今続けられて、私の生のある限り一生朝参りを続けますという神様への誓約というでょうかね、それがもう有難うなってきた。こいば頼まなんならん、こいば頂かなんならんというものじゃないけれども信心の妙賀に触れ出したという事なんです。ね、信心の妙賀に触れなければ駄目ですよ。本当のものにはなりませんよね。妙賀に触れる為の修行。
そしたら昨日の朝お夢頂いとられるのが、大きな白い橋でこんな頑丈な手すりがあるだろうかと思うような大きな手すりのね、橋を渡っておる所を頂かれたという。神様の世界と氏子の世界を取り結ぶいろんな宗教がありますけれども、手すりがなかったり手すりが壊れておったり落ちたら危ないというような宗教、のいやばっかりなんですと、私に云わせるとこんな完璧な橋はもう合楽、金光様の御信心で合楽理念をもってする他ないです。そういう素晴らしいいうなら橋を渡って神様の世界、我心が神に向こう世界を歩いておる。そしてその橋の上から下を見た所が、こんなに大きな大蛇とも思われるような大きな蛇がこうやってゆっくりゆっくりその動いておるのである。まあ大きな蛇と思うたらそれがもう丸々とした赤ん坊に変わっていく所を頂いたというのです。ここでは蛇のお知らせをめぐりという。ね、本当はめぐりの為に難儀があったけれどもそのめぐりというのは実を云うたら本当はめぐりではなかった。本当は神愛であった。こういう丸々とした赤ん坊を与えたいばっかりの神様のお働きであったというお夢を頂いたというて昨日お届けがありました、ね。
いうならば、合楽理念の絶対性というものを確認した。こういう素晴らしい橋があるだろうか。こういう頑丈な手すりは見た事がないといったような手すりのある橋を渡って人間世界から神様の世界へこう渡って行っておられる上滝さん、生涯かけて渡って行かれる事だろう。今迄めぐりと思うておったのは一切が神愛であったとわかってきた。そこにいうならば妙賀の世界がある。だから先ずはね、私は昨日から申します通りもう合楽理念以外の宗教は宗教とは思わんという位な思い込みがなからねば傾倒出来ません。 おかげさえ頂きゃどこでんよかちいうこっちゃでけん。合楽理念の何たるかを研究もしないで只合楽合楽ちいうごつではでけん。あらゆる宗教も勉強して見るがよい。そしていうなら素晴らしいけれども十全ではない。ね、合楽理念のいうならば十全に教祖の御教えを解き明かしておるのが合楽理念であるという事を極めて、そしてこれならいくら打ち込んでもよいという打ち込みがなされて始めて本当の信心が身に付くという事になるのではないでしょうか。光を頂けるのではないでしょうか。その光を受けて興ってくる所の産みなされてくるおかげを頂きたい。 一心を立つればおかげになるというのは、我心に神が御座るからという信心からね、私共が天地人一如の世界。私共の拝む対象はどこまでも天地である。ね、だから拝む為には只拝むだけじゃいかん。そん天地の心を体得して天地の心にならせて頂こうとするところに天地人一如の世界があるね。それを目指しての信心なんです。それを頂く事によって産まれてくる喜びです。信心の妙賀です。ね、上滝さんじゃないですけれども、絶対のものであるという事がわかって打ち込むということ、ね。
その過程において地真水心をいよいよ本当なものにしていきたいね。私は今日先づ御神前で光興産という事を頂いた。合楽におかげを頂いとる皆さんにです、只お願いしたらおかげ頂きましたというお願いじゃなくて、光を頂いて興産のおかげをどうでも頂いて頂いてね、合楽理念の絶対、合楽理念以外の宗教は宗教と思わんと思われるような強い信心を頂いてもらいたいと思います。どうぞ。